夜のバス停
「ただいま。」
西向きの仏間に、夏の夕日がまぶしく差し込んでいた。おばあちゃんが写真立てを磨く手を止めて振り返った。
「遅かったじゃないか。もうすぐお母さん、帰ってくるよ。宿題やってないと、怒られちゃうよ。」
「ごめん。宿題やってないこと、お母さんに黙ってて。」
「しょうがないね。」
おばあちゃんはまた写真立てをみがきだした。
「おばあちゃん、何してるの?」
「もうすぐお盆だろ。おじいちゃんをお迎えする前にきれいにしとこうと思ってさ。」
「おじいちゃんって、その写真の人?なんでそんなに若いの?」
「若い時に亡くなったからだよ。おまえのおかあさんが三つの時だったから…そうだ、三十二歳だった。おじいちゃん、男前だろう。おまえもおじいちゃんに似て男前になったらいいね。耳の形もそっくりだし。」
おばあちゃんは僕の耳を触りながら言った。
「いや、やっぱり、おじいちゃんに似ないほうがいいよ。」
「なんで?」
「美人薄命っていうからね。」
「ビジンハクメイ?何それ?」
「きれいな人は早く死んじゃうってことさ。」
その時ふすまが開いてお母さんの顔がのぞいた。」
「ただいま。
「よかった。お母さん、長生きだね」
「何の話?」
お母さんが怪訝そうな顔をした。
「人相の話をしてたのさ。」
おばあちゃんがいたずらっぽく笑った。
それから何年かして、僕は遠くの学校に行くために家を出ることになった。家を出る日、おばあちゃんが近所のバス停まで見送ってくれた。
「おばあちゃん、お盆には帰るからね。」
すると、おばあちゃんは急に悲しそうな顔をした。
「おじいちゃんもそういってバスに乗って、帰って来なかった。なんだか、もう、会えないような気がする。」
「そんなことないってば。絶対帰ってくるから。」
「きっとだよ。」
おばあちゃんは寂しそうに笑って手を振った。
新しい生活は大変だった。学費を自分で稼ぐため、昼は学校、夜は居酒屋でバイトの毎日だった。
「注文をおねがい。」
「はあい。」
注文を伝えると、店長がいった。
「悪いんだけど、今度の週末も出てもらえないかな?」
「え、僕、帰省するんですけど。」
「予定、変えられないかな。週末のシフトの人が急に足、骨折しちゃってさ。代わりの人が見つからないんだ。その代り、九月の週末は全部休んでいいからさ。頼むよ。」
僕はお母さんに今度の週末は帰れないと電話した。
「ま、今年暑いから、九月に帰ってきたほうがいいかもね。でも、おばあちゃん、がっかりするわね。」
そういって、お母さんは電話を切った。
二週間後、居酒屋でバイト中に携帯電話が鳴った。
「もしもし、おばあちゃんが倒れて危篤なの。すぐかえってきて。」
僕は次の朝一番の電車に乗った。家の最寄り駅についたときはもう夕方だった。バスに乗ろうとしたら、なんとバスは廃線になっていた。仕方なく家まで歩くことにした。家の近くのバス停の近くまで来たときは、もうあたりは暗かった。廃線のはずのバス停のベンチに人が座っていた。おばあちゃんだった。
「あれ、おばあちゃん、危篤じゃなかったの。」
おばあちゃんはだまって笑っていた。
「こんなとこで、何してるの?」
「バスを待ってるんだよ。」
え、バスは廃線のはずじゃ…。その時、僕の後ろで大型の車が止まる音がした。振り返ると古ぼけたバスが止まっていた。ドアから若い男の人が降りてきた。
「待たせたね。」
「待ちくたびれちゃったよ。」
「ごめん。さあ、行こう。」
男の人がおばあちゃんの手を握った。暗いのになぜが顔がはっきり見えた。僕と同じ形の耳。あ、仏壇の写真のおじいちゃんだ。おばあちゃん、いっちゃだめだ…。
おばあちゃんが振り向いて手を振った。
「元気でね。」
今まで見たことのない幸せそうな笑顔だった。僕は何も言えなかった。
おばあちゃんを乗せたバスは暗闇の中に消えていった。その時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、おばあちゃん、亡くなったわ。間に合わなかったわね。」
これでよかったんだ。僕は携帯電話を静かに切った。